盆栽の鑑賞方法、BONSAIの見方
歴史から鑑みると、盆栽の最大の目的は鑑賞すること、であることは別のブログで説明しました。では、盆栽をどのように鑑賞するのか、どのように見るのかを、歴史や日本の宗教観も踏まえて考えてみたいと思います。
盆栽を鑑賞する際、まず知っておきたいのは「どこから、どう見るか」という基本的な姿勢です。盆栽には通常、「正面」と呼ばれる最も美しく見える方向が決められており、鑑賞者はその正面に向かって、静かに木の姿を見つめます。このときの視線は、ただまっすぐ正面から見るだけでなく、やや下から見上げるように意識することが大切です。これは単なる見やすさのためではなく、盆栽が本来持っている「大自然の縮図」としての世界観を、より深く感じ取るための鑑賞方法です。
鉢の中に収められた一本の木を下から見上げると、それはまるで山の奥深くにそびえる老木のように感じられます。わずか数十センチの高さしかない木であっても、その枝ぶりや幹のうねり、根の張り出しなどから、圧倒的な存在感と生命力を感じ取ることができます。私たちはその姿を見上げることで、「自分は自然の中のほんの小さな存在なのだ」と実感し、同時にその自然の営みに包まれ、守られているような心地よさを覚えるのです。
この感覚は、禅の思想と深くつながっています。盆栽は単なる美的な飾りではなく、自然との対話の道具であり、心を静かに整える時間の中に置かれるべきものです。幹の傷や、枯れた枝でさえも、そのままの姿を受け入れ、自然のありのままを尊重する。そうした姿勢は、禅の「無常」や「無心」の考え方を映しています。盆栽の前に座るとき、私たちは何かを判断したり、言葉で語ろうとせず、ただ木の姿に身を任せ、自らの心を空にしていく。それが、盆栽の本質的な鑑賞のあり方です。
また、盆栽の魅力は「侘び寂び」の美にも表れています。侘びとは、質素で静かな中にある慎ましやかな美しさ。寂びとは、時を経ることで深まる趣や、古びたものの持つ静けさや力強さです。幹に刻まれた皺や、苔むした根元、均整の取れていない枝ぶり、そうした「不完全」に見える部分こそが、盆栽の味わい深さを形づくっています。これは、完璧な造形では得られない、日本独自の「時の美学」でもあります。
さらに、盆栽の裏側や枝の奥にも目を向けることで、木全体の立体感や奥行き、そして光合成を通じて「生きている」ことの実感が得られます。正面ばかりを追いかけるのではなく、木の全体を、命を育むひとつの存在として見つめることで、私たちはより深く、自然への敬意と共感を育てることができます。
つまり、盆栽の鑑賞とは、正面を基本に据えつつ、下から見上げることでその自然の雄大さを体感し、同時に禅の静けさや侘び寂びの美を通じて、自分自身と向き合う時間を持つことなのです。それは単に「見る」行為ではなく、心を澄ませ、自然と調和し、自分の生き方さえも見つめ直す機会となる、深く豊かな営みと言えるでしょう。
これって、生木盆栽でなくても同じ感覚を得ることができるのをご存じでしょうか。自然の姿を表現した弊社工芸盆栽A-BONSAIも同じように鑑賞できます。是非試してみてください。